子どもは欠陥品?グダグダの運動会に隠された大切なこと
この10月の週末に、運動会が行われたところも多かったのではないでしょうか。
普段、家では見ない我が子の頑張っている姿に、感動した親も多かったでしょう。運動会は、前の年との比較もできたりして我が子の成長が感じられる良い機会ですよね。
我が家の長男もクラス対抗のリレーに参加しました。人一倍、負けず嫌いな長男。運動会当日のリレーでは、ちょっと前を走った子が他のチームの子に抜かされてしまい、それまで勝っていた自分のチームのために、なんとか抜き返そうと頑張ったものの差を詰めることはできず、チームはそのまま負けました。
アンカーの一つ前を走った長男は、責任を感じたのか、単純に悔しかったのでしょうか。走り終わった後、一人園庭で大泣き。園庭の真ん中で待機しているので、どう見ても周りからは丸見えなのに、その泣いている様子を必死に隠そうとしてました。
その後、ママにだけ「悔しくて泣いちゃった」と、さもトップシークレットかのような告白。「いや、みんな見てて知ってるから」と側で聞き耳を立てつつも、大きく成長したな…と感じたりもしました。
■バラバラの運動会
長男の通っている幼稚園は、あまり、というかほとんど運動会の練習をしないようで、どちらかというと、「ありのまま」で運動会に臨みます。ですから、もちろんいろいろグダグダです。園庭も小さいので、非常にアットホームです。長男にはそうした雰囲気も合っているようで、彼なりに非常に楽しみにしていました。
縦割り保育の園なので年長さんである長男は、リレーも含めクラスの小さいお友達に応援されながら楽しんでる様子。運動会は、みんなの憧れの年長さんが活躍する場でもあるのです。
しかし、見てて思うのはいろんなことが本当にバラバラ、グダグダということ。
でも、それなりにみんな一生懸命だし、それなりに、というかむしろ立派に演技したり、走ったりしています。
そういう意味では、昔ながらの幼稚園生らしい、ほのぼの(本人たちは、いたって本気)して、何より子どもたちの「個性が丸出し」のいい運動会でした。
■子どもは欠陥品?
でも、小学校の運動会になると状況は一変しますよね。みんな、きちんと整列して列をなして、走っていきます。演技も見事に揃っています。子どもながら、すごいな〜と感じます。(もちろん、自分もやっていたのだと思いますが)いろいろ物議を醸している組体操も端で見ている分には、すごいなあ〜と思います。
しかし、こうした運動会を見ていて思い出したことがありました。
それは、『学習する学校』という本に書かれた一節です。世界で200万部以上を売り上げ、過去75年で最も影響力のある経営書の一つ、と言われているMITの講師でもあるピーター・M・センゲという人が書いた本です。
その本の中では、学校はその成り立ち上、「標準化」という概念を重視するように作られており、『そもそも「欠陥品」である子どもを、標準化させるための組織である』、というものです。
本書には以下のように書かれています。
<19世紀半ばの教育者が自分なりの新しい教育の形を考えるにあたって、こうした工場主たちがやっていたやり方をこぞって借用しようとしたのも驚くにあたらない。その結果、組み立て作業ラインのイメージに沿ってつくられた、産業化時代の学校制度、つまりブームとして沸き起こった産業化時代の象徴的存在ともいえる学校制度が生まれた。>
近年では、日本でも個性を重視する教育が重要だと言われてたり、もちろん実践しているところもあると思いますが、こうした問題は世界的な課題なのです。
さらに、こうも書かれています。
<実を言えば、学校こそが近代社会における組み立てラインを組織全体のモデルとした最も純然たる例>
というのです。
ですからある意味、学校の運動会が一糸乱れず整然としているのは目標通りなのです。
一般的な幼稚園や保育園のグダグダな運動会の感じと、小学校以降の学校の運動会の差が、歴然としているのは、こうした訳があるのかな、と思ったりもしました。
何を良しと考えるかは、人によって違うと思いますが、いわゆる運動会が、世界でも日本独特のものだというのも興味深い事実です。
長男と同じ幼稚園にいるイタリア人パパが、運動会のことを「日本には、あんなファシスト的な習わしがあるのは信じられない!軍隊みたいじゃないか!」と怒っていたのに、運動会で子どもたちが生き生きと楽しでいる姿を見た後、園長先生に「スバラシカッタデス!マーベラス!グラッチェ!」(ちょっと誇張あり)と言っていたのが、個人的には一番ウケました。笑。
まあ、それだけグダグダ(=個性豊かな)な運動会だった、ということでしょう。
リレーで泣いた長男も、「超楽しかった!」そうです。先生方や、関係者の皆さん、ありがとうございました!
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