子どもの「悪」と付き合っていますか?「悪」こそが子どもの成長要因となる
うちの子どもは、いつのまにか幼稚園で悪ガキになっていまして、夏休みに入って、ちょっとホッとしています。というのも毎日のように、「◯◯ちゃんを泣かしました。」「ふさげて、◯◯ちゃんのお弁当を投げました」などの注意を幼稚園から受けていたからです。教会で行われた幼稚園の終業式では、「教会がつまらないから」ということで、ただ一人、教会に入らなかったようです。(終業式に参加しなかった)
”子は親の鏡”、と言いますので、親としては反省しつつも、「どうしてこうなったんだろう?」というのが正直なところ。幼稚園の先生は、この問題児をやみくもに怒らずに、見守っている、というスタンスです。
そこで、この幼稚園の先生の態度にも通ずるものを、前回のブログにも書いた、心理学者の河合隼雄さんの著書『子どもと悪』を読んでいて見つけたので紹介します。
■「子どもの幸福を願って」は、余計なお世話
<日本で、子どもを取り巻く悪として考えねばならぬことは、大人の「善意」による悪ではなかろうか。「子どもの幸福を願って」大人がすることが、子どもの不幸につながっていることが多いように思う。>
親は自分の経験から、”出来るだけ子どもには苦労させたくない”、という思いが強く、いわば子ともにとって、”おせっかい”とも言えるようなことをしてしまっていると言います。
<日本の親や教師は、教えたり、指導したりすることにせっかちで、子どもの中から自ら育ってくるのを待つことができない。>
そして、これが”子どもの悪”の表出を失くしてしまっている、というのだ。では一体、子どもの「悪」とは、どういうものなのだろうか?
■子どもにとって「悪」とは何か?
本書によると「「悪」とは
<悪というのは自立へのひとつの契機>
あるいは
<個性の顕現は、どこかで「悪」の臭いがする>
と書かれており、いずれにせよ、子どもにとっては必要なものである、という。
<思春期は人間を底からつくりかえるような大変なときである。このときに、何らかの「悪」を経験しない人はないと言ってもよい。その「悪」の経験によって、子どもはさまざまな形で鍛えられて大人になっていく。>
とも書かれています。
思春期の「悪」と、うちの子どもの「悪ふざけ」はちょっと違うかもしれませんが、いずれも大人の基準から見た「悪」であり、当の本人にとっては、「悪」をしようと意識してやっているのではない、という点では同じかもしれません。
■なぜ親は子どもの「悪」の芽を摘み取ろうとするのか?
<基本的には、子ども自身の成長の可能性に信頼をおいて待っておればいいのに、それができない。なぜ、子どもを信頼できないのか。それは自分自身を信頼できないからである。>
確かに、親自身の不安が、無意識のうちに子どもに向けられていることを実感します。子どもを信じられるか?というのは、自分を信じられるか?ということと、この場合は結局一緒になってくるのでしょう。
この本では最後にこうも書かれています。
<大人がもう少し悪と辛抱強く付き合うことによって、子どもともっと生き生きとして豊かな人生を共に味わうことができるのではなかろうか>
自分としては、この言葉を意識しており幼稚園での悪ガキっぷりも少し放っておこうかな、と思ってみています。それで、そのまま悪くなってしまったら、それまで、と考えるしかないでしょう。数多くの子ども達を見ててきた幼稚園の先生の対応も、こうしたことなのかもしれません。
結局、子育てというのは、この覚悟(この場合は、まだまだショボいですが)を持てるかどうか? だということでしょうか。ということで、夏休みに入って、幼稚園での問題行動は起きませんので、少しゆっくり「悪」と付き合ってみようと思っています。この実験の結果は、しばらくしたら報告したいと思います。
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