2948972629_093cda587a_b春分も過ぎて、受験シーズン到来。さらには卒業式、卒園式などを意識する季節でしょうか。新一年生の家にランドセルが届いた!なんてニュースも耳にするようになりました。

そんなニュースに触れながら考えるのは、ヨーロッパと日本の違い。2016年1月に2週間滞在した、オランダでの学校見学や取材の余韻がまだ残っているからです。

一言でザックリというと、「成熟社会」という印象を強く受けたのですが、オランダでは4歳になった翌月から小学校に入学します。だから入学式とかありません。もちろん、ランドセルとか指定のカバンとかないし、教科書もレンタルだそうです。

このようにちょっとしたことだけでも、合理的というか大人っぽいというか…。日本との違いを感じざる負えないのです。

 

■自立の仕方が違う

この違いが一体、どこから生まれてくるのか?ということを考えていた時に、面白い本の一節を思い出しました。

京都大学教授だった河合隼雄先生の『大人になることのむずかしさ』(2014 岩波書店)から、ちょっと長いのですが引用してみます。

<筆者がスイスに留学中のことだが、ある小学校一年生の子が成績不良というので、幼稚園へ落第させられたことを知り、驚いていると、幼稚園の先生が、日本には落第がないのかと聞かれる。小学校では落第がないというと、その先生が驚いた顔をして、「日本ではそんな不親切な教育をしていいのか」といわれる。このときに筆者にとって印象的だったのは、落第させることを「親切」と考えているという事実であった。つまり、成績の悪い子はその子に適切な級に落第させるのが親切だというのが西洋流であり、たとえ成績が悪くとも進級させてやるのが親切だというのが日本流ではなかろうか。>

このような違いが、ヨーロッパと日本の考え方の違いを端的に表している気がします。

目指している「自立像」がそもそも違うのではないか?と感じるでのす。

日本ではあくまで他者と繋がりながら、慮り、自己主張をするより周りに配慮することを自立の条件としている。一方、ヨーロッパは他者との関係性の中で、個が確立されているわけではなく、むしろ自分の存在を他に対して主張してゆく、といった感じでしょうか。

日本はみんなと一緒の方がいいので、進級も一緒に。西洋では成績が悪いのは自分のせいで、そこで進級すると本人のためにならないから落第する。落第が嫌なら、進級できるように自己主張せよ。つまり成績を取りなさい、ということでしょうか。

この辺が漠然と「成熟社会」と感じた所以かもしれないなあ、と大学で留年(&浪人)したことのある自分は思いました。

 

■目指す大人像が違う

日本では、何も言わなくても周りの雰囲気を察することができるのが、デキる大人ですよね。いわゆる空気を読む、というやつです。

一方、ヨーロッパでは

<自分のことは自分で自己主張できることが、大人になることといえるだろう。>

と書かれています。

このように目指す大人像が違えば、当然、子どもの育て方も変わりますよね。もちろん、学校のあり方も変わってくるでしょう。

ですから教育内容がどうか? 育て方がどうか? ということはあくまでも手法の違いであって、大事なのは目指すべき大人像の違い、つまり目的がそもそも違っているということだと思いました。

 

大きくなったらヒーローになりたいという、うちの長男は今、スターウォーズに夢中。(見たことないくせに)フォースを会得するために日夜技を磨いています。

このように将来の目標が決まると、そこへ向かっての努力がしやすくなりますよね。笑。

子育てにおいて、子どもが小さいうちは目標設定とか、目指すべき大人像、要はどんな大人になりたいのか?を明確にするといいかもしれませんね。

Benedetta Anghileri