滞在、わずか数日という、あっという間の日本出張を終えてオランダに戻ってきました。

たった、3,4日留守にするだけでも帰ってくると、子どもの成長の早さにはびっくりします。特に、うちの場合は、次男が成長著しい2歳ということもあり、毎回びっくりするほど変わっています。

喋れる言葉が増えていて、本当に驚きます。

喋れる言葉が増えるといえば、長男のオランダ語もメキメキ成長中で、学校生活においては、すでにあまり不自由がないようです。もちろん、先生との会話もオランダ語。

この成長にもびっくりです。4月に移住して、7,8月と長い夏休みを経て、もうこの時期になると、普通にしゃべっているのです。

親がいまだに、ほぼ喋れないのと比べると語学習得は恐ろしい速さです。

で、本日、年内も終盤ということで、先生との面談がありました。

 

■小学校の「進級」は普通か?普通ではないのか?

先生との面談は、我が家の場合、「家族面談」。一家揃って参加します。

自分が子どもの立場だったら、さも嫌だっただろうなあ、と思うのですが、こちらの面談はかなりリラックス。子どもたちが教室で遊ぶ中、先生とはラフにお話が進みます。

とはいえ、かなり細かく学校での成績というか、様子がきちんと評価されているレポートを見ながら話します。

たとえば、「読み、書きはどんどん良くなっているから、もっと発言できるようになるといいと思います。」「きちんと理解はしているから、語学力の問題というより、表現力や性格の問題ね」「もっと自分を抑えないで、どんどん表現してほしい」「学校ではポップスターのように人気者で誰とでもうまく遊べるから、自分の意見をもっと言っていいんじゃない?」と言った感じ。

もちろん、語学力の評価や算数の評価などもあります。

たとえば、こちらから「算数は簡単すぎて退屈みたいだから、もっと本人が面白いと思えるようなのをドンドン本人がやりたいみたいで。。。」と言うと、「思っていることを教えてくれてありがとう。じゃあ、学年が上のクラスの先生に相談するから、もっと本人がやりたいやつをやりましょう」とか。

こんな感じです。

で、最後に。「もう来年の9月には、新しい学校に行っていいわよ」と。これは、つまり語学学校を予定通り1年で卒業できます、と言うことなのです。

普通にやっていれば1年で卒業というか、実質、進級できる学校です。ましてや日本の感覚では小学校なので進級って普通ですよね。ところが、こっちでは以外にも普通ではないのです。

先生がよく見てるからこそ、良かれと思って「落第」させることがあるというのです。

 

■「落第」させるのは親切心から

ここで、あの京都大学教授だった河合隼雄先生の著書『大人になることのむずかしさ』(岩波書店 2014)から、引用してみます。

なぜ海外の小学校では落第させるのでしょうか。そこには、「自我の確立」の仕方が、日本と西洋では全く違うというのです。

<筆者がスイスに留学中のことだが、ある小学校一年生の子の成績不良というので、幼稚園へ落第させられたことを知り、驚いていると、幼稚園の先生が、日本には落第がないのかと聞かれる。小学校では落第がないというと、その先生が驚いた顔をして、「日本ではそんな不親切な教育をしていいのか」といわれる。このときに筆者にとって印象的だったのは、落第させることを「親切」と考えている事実であった。つまり、成績の悪い子はその子に適切な級に落第させるのが親切だというのが西洋流であり、たとえ成績が悪くとも進級させてやるのが親切だというのが日本流ではなかろうか。>

とあります。

で、この考え方の違いは、そもそも日本と西洋では「自我のあり方が異なっている」から、と書かれています。

<西洋人の自我は他と切り離して、あくまで個として確立しており、それが自分の存在を他に対して主張してゆくところに特徴がある。それに対して、日本人の自我は、あくまで他とつながっており、自分を主張をするよりも他に対する配慮を基盤として存在しているところがある。先の例で言えば、ある子どもが一年生に入学してくると、その子の成績がどうであれ、その子の気持ちを配慮して、みんな一緒になって進級してゆくようなことをよしとしなくてはならない。それに対して、西洋では成績が悪ければ落第し、落第が嫌なら進級できるように自己主張せよ、つまり、自ら努力せよ、ということを教えるのである。>

ということで、うちの子どもも落第の可能性も全く0ではなかったのです。

ま、この考え方に則ると、落第しても、きちんと実力をつけることができると考えれば、悪いことではないのですが。。。

で、こうした違いが

<日本人であれば、何もいわなくても相手の気持ちを「察する」ことのできる人間になることが、大人になることといえるし、西洋人であれば、自分のことは自分で主張できることが、大人になることといえるだろう。>

と書かれています。

つまり、これは「自我の確立」の方法の違い。いうなれば、大人になる方法の違いだというのです。

 

ということで、日本人だと「大人になる方法」は、暗黙のうちに一つの方法しかないと考えがちですが、こちらでは、そこからして自分で模索していく、という感じでしょうか。

我が家の場合、親である自分も落第経験者なのでw、「むしろ落第いいよ!」とか強がって言ってみていたのですが、それは大学の時の話だし「親切心」で落第させられたのではない、と思っていたのですが。。。

ひょっとして「親切心」だったのか!と、20年経って分かった次第です。これでは、教授の親切心も水の泡ですね。。。

と、こちらで逞しく育つ子どもには、オランダ語でも圧倒的に負けています。トホホ。。。半年ちょっとで、大きな差がついちゃったな〜と…。今回は、人ごとのような感想で締めさせていただきます。

Stephen Marchetti