今日は、冒頭からちょっと真面目な話を。(というか、読んでくれているみなさんの時間を無駄にしないためにも、いつも通り真面目な話ですがw)

実は最近、やたらと学校や保育園(幼稚園)づくりの相談をされることが増えています。子どもの居場所、あるいは子どもの社会での置き位置というか、立ち位置というか、捉え方に翻って話をすることが多いのですが…。

たぶん、みなさんかなり悩んでいるんだと感じます。お子さんの教育や、日本の教育について。そして、その気持ちも非常に良く分かります。なんと言っても我が家も同じことに悩み、結果的にオランダに移住している訳ですから。

だからこそ、このブログでは「オランダの教育がいい!」「海外の教育がいい!」ということではなく、日本との違いを認識しているからこそ書けることを意識して書いているつもりです。実際に、日本のほうが良いことも沢山ありますし、もしかしたら日本人にはやっぱり合っている!なんてこともいっぱいあると感じています。

でも、逆に海外だと当たり前のことが、日本ではことさら「素晴らしいこと」「新しいこと」に捉えられていたりすることもあって、それもそれで、「違い」を分かっていると、「そんなにすごいことでもないのになあ…」と感じることもあります。(これについては、例をあげるといろいろと支障がでそうなので、ここでは挙げません。会った時にでもコソッと質問してくださいw)

 

学校は社会の縮図

それで、一番大きな「違い」というか、日本の学校と海外の学校の差を考えるときに一番はじめに思うことは、「学校は社会の縮図ではないか?」ということです。学校(教育)は、社会と繋がっているというか、その社会があって、その社会の中に学校とか教育がある言うことです。これをいつも意識しています。

まあ、言われてみれば当たり前の話だと思うんですが、だからこそ、他の国からおいしい(と思われる)ところだけを、ポッと自国に持って行っても、それはやっぱり成り立たないと思うのです。よくサラッと見学や視察に来た教育関係の人が、「これはいい!」「すぐに導入します」とか言っているの聞くことがあったり、背景を知らないで、ブログとか報告会的なことをやって、ことさらに「これがいい!」なんて言っているの見ますが、やっぱり、それはそれが成立している背景があって、長年に渡って試行錯誤を繰り返して成り立っているものだったり、現状でもそれが繰り返されている過程だったりします。そして、それは社会からの要請によって、そういうことが行われていることがあります。その学校が存在している社会と繋がっているから、と言い換えてもいいかもしれません。

例えば、オランダのある学校では小3くらいから英語を始めています。他の例では英語とオランダ語が併用されている学校もあり、時期や手法などが今、いろいろと実験されています。

そもそも、オランダという国においては「英語」は社会からの要請があるからだと思います。(実際にオランダはセカンドランゲージとして英語の能力が世界一というランキングがありました)どんな学校の教育法であれ、ほとんどのオランダ人は問題なく英語をしゃべれます。

でも、日本で現実的にそこまで「英語」が社会で要請されているでしょうか?もちろん、英語は喋れるようになったほうがいいと思いますし、今後は、もう当たり前にしゃべれないと世界では通用しません。(というか、今でも)でも、今の日本の社会人で、そこまで英語しゃべれる人いるんでしょうか?

もしかしたら、幼稚園で英語の学習を始めるより、もっともっと外で熱中するくらい遊び込める環境を作ったほうが、将来的にはいいかもしれません。日本社会では、そっちのほうが良いのかもしれないのです。同時翻訳機だって、もうほぼ実用レベルですよね?

先日、日本から来た幼稚園の先生が、こちらの学校の幼少クラス(日本では幼稚園、保育園にあたる年齢)を見て、「ここまで集中して一つのことを、みんなでできる幼稚園は、日本ではないです」「この子達の自主性というか、遊び込んでいる環境づくりがすごい」と言ってました。

これなども、オランダでは先生に何も言われなくても、「好きなことを好きなようにやる」という環境が大事にされていますが、その結果大人になった時も、「上司からの指示を待たないで、勝手に自分の役割や好きなことだけ集中してやる」、みたいなことに繋がっているのかもしれないなあ?と思ったり。(あ、ちなみに、これには大人になった時の弊害ももちろんあって、好きなことしかしない、とか、自分の仕事以外は一切やらないという配慮0、協調性0みたいなこともあったり)もしかしたら、全く繋がっていない話かもしれないのですが…。

まあ、これはただの例であって、要は、その教育は社会からの要請があってのことであって、学校というのは常に社会と繋がっているという視点が大事なのではないか?ということです。

 

教育改革は社会改革?

なので、もうみなさん、今、一生懸命教育改革をしようと努力されれいると思いますが、学校だけを変える、というのは片手落ちとは言わないまでも、なかなかそれでは変わらないのではないか?と思っています。難しいですよね?だから、今の日本の学校改革、教育改革はつまり日本という社会改革ではないか?と思うのです。

ほら、例えばN高って、そういう感じしませんか?あと、最近日本でも開校するということで、ニュースになった、パリの42日本ではDMMが無料でやるようです。なんか、今の所、本家パリの良さが出せてない気もしますが…汗。ともあれ、ぜひ本家パリの思想を見てください。また、離島の学校として有名な海士町の島根県立隠岐島前高校など。

これらは、社会や時代からの要請によって、学校が出来て、そこで生徒たちが必要なことを学んでいくという、プリミティブな原則が感じられます。

決して「大学受験のためだけに必要な知識を身につける」ということではない気がします。今の日本では残念ながら、「大学受験のため」「大学に入るため」というのは、社会に全く繋がっていない感じがしてなりません。こういうことを感じているから、皆さんも悩んでいるんだと思いますが…。

また逆に繋がっているとしたら、重要法案を審議もほぼせず強行採決したり、機密文書を破棄したり、明らかな嘘をつきまくったりして、みんなと一緒に桜を見ても何にも変わらない社会w。こういう社会と繋がっているのが、今の日本の学校なんだろうなあ…と思ったり。

やっぱりこう考えると、先生任せ、学校任せで済む問題ではなく、社会で取り組む問題ですよね。

オランダだって、先生の待遇が良くなくてストがあったり、先生不足で学校が休校になったりもしますし、勉強なんか日本と比べると全然しません。(特に小学校)だから、こっちでも社会と繋がった問題があるのです。

ただ、社会と繋がっているという実感がすごくあるのと、またそれを常に改革していこうとしている様子は考えられます。

例えば、ヨーロッパ各地で毎週行われているグレタさんの「Fridays for future」(気候変動や環境対策の遅れに対しての子どもたち(を中心にした)のデモ)に、こちらでは校長先生自らが「君たちの将来に関する問題に対して、大人である私が意見する権利は一つもない。デモに参加したい人は、学校を休んでいいのでデモに参加しなさい」というスタンスです。(小学校でも)一方で、日本では「学校は休んじゃだめだから、デモには参加できない」という若者も多いと聞きました。

まあ、これもどっちが良いか?ということで捉えるのではなく、社会との繋がりがどうなのか?その社会は、どっちを向いているのか?という視点で捉えると面白いかな?と思います。つまり、冒頭に書いた日本とのオランダの違いに注目してみると面白い例かな?と思います。

 

ということで、今日はいつになく「真面目か??」という感じで書きましたが、最近の若者が、割とパブリックな場で話していても、一言づつに「マジかっ??」「マジかッ??」って言っているのを聞いて、それはバカにしてるんでもなんでもなく、真摯なリアクションなんだな…、と理解してきた最近です。

まあ、社会との繋がりによって、いろいろと変わってきているだな、と納得しようとしていますが。。。汗。