今、オランダは2週間ほどのお休みに入っています。と言っても、コロナによる自粛要請(が7週目)とかぶっているので、今年はみんながこの休みを取っているのか、取っていないのか?全然分かりません。

例年なら、我が家もバケーションで旅行に出かけたりするのですが、今年は残念ながら自宅待機です。そあ、ちなみにヨーロッパではこの夏の大規模イベントは全て中止になりました。

一方で、いよいよこの連休明けから、条件付きで小学校は再開されることになっています。

一部の国をのぞき世界中で、まだまだ一向に収まる気配のないコロナですが、この間に各国のリーダーたちの立ち振る舞いが注目を集めています。筆者はヨーロッパに住んでいることもあって、日本とヨーロッパのリーダー達の違いがどうしても気になります。

それは実は「大人へのなり方の違い」なのではないか?と思ったからです。

 

西洋式「大人のなり方」と日本式「大人のなり方」

おそらく日本に住んでいるみなさんも、今回のコロナ対策を通して日本の政府や社会に対しては、いろいろな疑問を持っているのではないかと思います。

日本は、もともとクルーズ船への対応で、世界中にそのゆるさ、杜撰さを知られることになってしまいましたが、贔屓目に見るならば、多少不運もあったのではないか?と思っていました。たまたま2月上旬のあのタイミングで、あの船が横浜に寄港することになっていたこともそうです。あの船というと、実はあの船の運行会社はもともといわく付きで、クルーズ中に海洋への不法投棄を繰り返したり、それについての罰金を課せられても全く意に介さないような会社だというのです。(社長はトランプ大統領と大の仲良し)なのでそういう船で、ウィルスが発生してしまったことや、それが日本に寄港してしまったことなんかは、かなり運がなかったのではないか?と思いました。もちろん、その後の杜撰な対応はみなさんも知ることになった通りですが。

でも、その後、米国の海軍でも船内でコロナが蔓延してしまったりしているのですが、こちらは軍事的な観点もあり、あまり報道されていないような気もします。(ついでに在日米軍内でも広がっている様子)ようは、やはりいくら大きくても、船内という閉じられた空間では、コロナの蔓延を防ぐのは並大抵なことではない、ということだと思いました。

なので、クルーズ船に関しては、贔屓目に見ると多少の「不運」があったのでは?という気もします。(もっとも死者まで出ているので、本質的に不運というのは適切ではないのですが)

ただ個人的に一番びっくりしたのが、やはり「アベノマスク」。何百億円もかけてマスクを配るという世界的に見ると大失笑もので考えもつかない施策を、官僚たちも「広報が悪かった」などといって、本質的な間違いを認めず、さらにその愚策を真面目に擁護するような人や、「文句を言うな!」という人たちも現れ、さらにさらにアベノマスクの不良品率が世界のイチロー並みの3割に達して、一部の製造メーカーも発表されず、どうやってお金が使われたのかもわからないまま、今度は回収するという。。。何百億円も費やして歴史に残るコントネタを作ってしまっているのです。

他にも「補償のない自粛要請」とか、「検査数が少ないことを正当化するための専門家会議」とか、もう全く訳のわからないコントが炸裂しています。

こういうこと、もしヨーロッパで起こったら普通に暴動が起こるのではないか?と思います。

で、「アベノマスク」は個人的にあまりにも衝撃的だったので、長くなってしまいましたが、こういうことが起こり、かつ誰の目から見ても、これをきちんとしたリーダーシップを取ってまとめられていないというのは、明らかに「大人のレベル」が低いのではないか?と思うのです。

ということで、この点について、ここではよく引用させてもらっている故河合隼雄先生の「大人になることのむずかしさ」(2014 岩波書店)を見てみます。

<大人になるといえば、「自我の確立」ということを条件のひとつとして、誰しも考えるだろうが、実のところ、「自我」ということが西洋人と日本人では異なっている>

<西洋人の自我は他と切り離して、あくまで個として確立しており、それが自分の存在を他に対して主張してゆくところに特徴がある。それに対して、日本人の自我はあくまで他とつながっており、自分を主張するよりも他に対する配慮を基盤として存在しているところがある。>

つまり、自我の確立という大人になるための条件が西洋と日本では違う、と述べられているのです。(本文では、このあとにどっちがいいとか悪いということではなく、とにかく違うのです、と続きます。)

で、結局、日本人は何も言わなくても他人のことを「察する」ことができるのが「大人」であり、西洋では、自分のことは自分で自己主張することができるのが「大人」だというのです。つまり「大人」の意味が違っているのです。

なので、先に「大人のレベル」が違う、と書きましたが、そうではなく「大人の意味」が違うのです。

 

自我がない=リーダーとしての主張ができない?

さらに引用します。

<日本人はその自我を作り上げていくときに、西洋人とは異なり、はっきりと自分を他に対して屹立しうる形でつくり上げるのではなく、むしろ、自分を他の存在のなかに隠し、他を受け容れつつ、なおかつ、自分の存在をなくしてしまわない、という複雑な過程を経て来なくてはならない。しかし、その間において、他に対する配慮があまりにも優先すると、常に「他の人はどう考えているのか」、「他の人に笑われないようにしなければ」ということが強くなりすぎて、西洋人から言わせれば「自我が無い」と言うことになってしまいかねない>

とか書かれています。

ここまで読むと気づくのは、こういう「大人」がリーダーシップを発揮できるわけがない、ということではないでしょうか?

もちろん、日本でも素晴らしいリーダーシップを発揮できる人もたくさんいます。逆に西洋でもリーダーシップをこれっぽっちも発揮できない人もいます。

ですから、ここで日本式の「大人」がダメで、西洋式の「大人」がいいということを言いたい訳ではありません。むしろ、自分たちでこういう傾向を踏まえておけばいいだけの話です。

ただ、我々、日本人はこういう子育てをされてきて(していて)いるので、大学を卒業して、会社に入った途端に「リーダーシップ」を発揮することはなかなか難しい。そして立派な社会人として成長すればするほど、「自我」をなくして、周りを「察して」いく。そして周りからは「あの人は優秀だ」とされていくので尚更です。

ほら、政治家っていうのは「察する」のがうまい人だけが、その世界で生き残れたりすると思いませんか?そのトップが総理大臣なのですから、なかなか他と屹立して「自我」を主張することは本質的にできないのです。もっとも最近は、「察する」のは内輪だけのことのようですが…。

なので、例えば田中角栄とか、最近で言えば小泉純一郎とかは、異例なんでしょうね。記憶に新しいところでは、小泉元首相は「変人」と言われていましたね。それは要は、「他と違う」ということなので、「自我」が確立されているタイプだったのだと思います。

自分は、今、オランダで子育てをしていて、こうした違いをヒシヒシと感じています。海外での子育てというのは、語学とか文化が学べるとかではなく、この違いを日本人としてどうするのか?というところが一番大きいと思います。

なので、外から見ると日本の今のコロナ対応は、意味がわからないのです。リーダーシップが1mmも発揮されているとは感じられないからです。

 

ということで、コロナ対策を通じて、日本人と西洋人のリーダーシップの違いを考えました。そして、繰り返しますが、これがそのまま子育て感の違いでもあるのです。

リーダーシップを育てたいなら、さっさと子どもを留学させたりしちゃってもいいかもですね。

あれ?どっかの国のリーダーも留学していたような。。。たぶん、ちょっと留学のタイミングが遅かったのかもしれませんね。自我を確立して、リーダーシップを学ぶには。